2011年 初夏 下灘駅

 (0)  双海町からの便り(Ehime,Shikoku,JAPAN)  2014年02月27日

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かつて「日本一海に近い駅」といわれたJR四国予讃線、下灘(しもなだ)駅。2011年の初夏、家族よりひとあしはやく、ひとりこの無人駅に降り立ちました。東京で20年以上、主に法人を対象とした広告代理店に勤めていましたが、これからの職場は「地域」。縁もゆかりもない新しい土地で、文字通り右も左もわからないなか、この駅が活動の拠点になるのだろうという予感を感じていました。

移住のおおきなきっかけとなったのは福島第一原子力発電所の事故でした。当時4歳のひとり娘は総武線の車内で震災にあいました。緊急停止した満員の車内は静寂につつまれ、おとなたちは繋がらない携帯電話を夢中になって操作していたそうです。やがてドアが開かれ「ここに子どもがいるぞー」という声とともに母親と社外に出され、最寄駅までの線路を、先頭に立って歩いたという思い出を今でもときどき話してくれます。

福島第一原発の事故からの数週間、都心でもちょっとしたパニック状態が続きました。いつも遊びに行っていた公園が高い放射線量を記録し、水道水を飲むのを控えるようにと伝えられました。店頭からペットボトルが消え、乳幼児を対象に飲料水の配給も始まりました。

ぼくは高校2年と3年を福島第一原発から約20キロの双葉郡川内村で過ごしました。社会科見学で原子力発電所を訪ねたとき、使い方を誤ったときの原子力の危険性と、あらゆる科学技術を結集した原子力発電所の安全性を学びました。そしてぜったいに安全と胸を張っていたあの原発は壊れてしまった。

放射能がどう危ないのか、具体的にわかるわけではありません。そんなに騒がなくてもという思いもありました。でも娘が二十歳になったとき、万が一なにかしらの症状が出たとして「どうしてあそこでわたしを育てたの?」との問いに「お父さんはあそこで働かなくてはいけなかったから」と答えることだけはしたくないと思いました。

西日本への移住をたった一日で決め、家族にはなにも話さずにインターネットで調べ始めました。とはいうものの、移住などということはこれまでわずかにも考えたことはありません。農業や酪農のインターン、産直市のマネージャー、介護職員、とにかく仕事を手にいれなくては暮らしていけません。虫や花のだいすきな娘のために、できれば豊かな自然の残っている田舎で、ぼくにできる仕事はあるか。

そんななか「JOIN ニッポン移住・交流ナビ」というサイトで「地域おこし協力隊」の募集をみつけました。総務省が2009年から始めたこの事業は、都市住民を1~3年間の任期で過疎地域に移住させ、各種の地域協力活動をおこなうというもの。また、地域の活性化に貢献しながら、みずからも定住・定着を図りましょうとしています。ぼくはこの仕事にとても魅力を感じました。

これまで「地域活性化」など考えたこともなく、自分にできるか?と感じた部分もありましたが、なにごとも一所懸命に取り組めばなんとかなるいうのが信条であり、これに応募することに決めました。

ちょうどそのとき、西日本で10ヵ所ほどの募集がありました。そのなかで「愛媛県」がたまたま東京で説明会を開催するとしており、これに参加し、帰宅してすぐに応募書類に取り掛かりました。それからちょうど2ヵ月後、下灘駅に降り立ったのです。

(つづく)

この記事は以下のサイトからライターの許可を得て転載しています。

『双海町からの便り(Ehime,Shikoku,JAPAN)』

http://futami-tayori.tumblr.com/post/77991214636

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